グローバルファンド日本委員会 設立15周年を迎えて
(公財)日本国際交流センター(JCIE) 執行理事
グローバルファンド日本委員会事務局長
伊藤 聡子
グローバルファンド日本委員会(FGFJ)は今年で15周年を迎えます。年初にあたり、2004年当時は日本でほとんど知られていなかったグローバルファンド(世界エイズ・結核・マラリア対策基金)の「応援団」を作ることになった経緯とその背景をご紹介いたします。
ワシントンからのメール
グローバルファンドがジュネーブに設立されて1年半ほどたった2003年の夏の終わりに、日本国際交流センター(JCIE)理事長山本正(当時)のもとに、元米国政府高官モートン・ハルペリン氏から1通のメールが届きました。米国防総省で沖縄返還交渉にあたったハルペリン氏はJCIEの古い友人で、退官後、ジョージ・ソロス氏の財団のワシントン事務所でシニア・アドバイザーを務めていました。メールは、ジュネーブにある新しい保健分野の官民連携組織が日本でパートナーを探しているが、関心はないか?というものでした。
グローバルファンドには、各国政府とならびソロス氏の財団、ゲイツ財団、国連財団などの民間財団が参加し、その運営を助けています。2000年代初頭、エイズの流行はとどまるところを知らず、米国はグローバルファンドへの拠出に加え、ブッシュ大統領自らが二国間のエイズ対策援助を立ち上げ保守的なアプローチのエイズ対策支援を展開していました。危惧を感じた財団関係者や日米関係の専門家の間には、グローバルファンド誕生のきっかけとなったG8九州沖縄サミット議長国の日本に、資金的にも内容的にもより深くグローバルファンドに関与してもらい、地球規模課題におけるマルチラテラリズムと国際協調をリードしてほしいという期待があったのでしょう。そうした国際関係―特に日米関係―の流れの中から誕生した事業でした。
なぜJCIEか?
感染症の専門組織は日本に多々あるなか、なぜJCIEに白羽の矢をあてていただいたのか。
日米関係など日本の対外関係の強化をミッションとするJCIEにとって、確かに国際保健は未知の世界でした。しかし、数名の同僚とともに2003年夏に来日したグローバルファンドのフィーチャム事務局長と話しをしながら、私たちの強みが活かせるだろうと直感したことが4つありました。それは、JCIEが日米議員交流で培ってきた超党派の国会議員とのパイプ、フィランソロピー事業で得たエイズ分野のNGOとの交流、数々の有識者フォーラムの運営で構築した企業経営者との人脈、そして民間外交の組織として長年にわたり維持してきた省庁との信頼関係。これらはまさに、21世紀型の国際機関であるグローバルファンドが重視していたマルチ・ステークホルダー連携の要素でした。JCIEが「人間の安全保障」という政策概念の普及と具体化を推進してきたことも下支えとなりました。
振り返ってみれば、これは偶然の一致ではなく、官民のセクターを超えたパートナーシップは、MDGsそしてその後のSDGs時代に必要な座組だったのではないかと思います。フィーチャム氏の来日から半年後の2004年3月に、国際会議「アジアにおける人間の安全保障と感染症」の場で世界基金日本委員会(後にグローバルファンド日本委員会に改称)の設立を発表し、九州沖縄サミット時の総理であった森喜朗元総理大臣に会長に就任いただき、官民の有識者の委員会と国会議員タスクフォースを作り、JCIE内部でも数名体制で、アドボカシーや広報、調査、企業との連携促進などの活動を開始し、今日に至ります。
15年の環境変化
15年の間に、グローバルファンドを取り巻く環境は大きく変化しました。設立当時アナン国連事務総長がグローバルファンドをWar Chest (闘争資金)と形容したほどの感染症危機からは脱し、感染症対策を支える保健システムへ投資をする余裕も出てきました。米国と欧州各国は依然として主要ドナーであるものの、受益国政府、また政府以外のアクターの重要性も増してきました。
さらに何よりも、日本がユニバーサル・ヘルスカバレッジ(UHC)を推進する国として国際社会で大きな存在感を示せるようになったことが、この15年間の大きな変化です。感染症対策なくしてUHCは達成できず、またUHCなくして感染症の流行は終息しません。ここまでの成果に慢心して感染症対策の手を緩めることなく、しかし同時により広い分野のHealth for All の達成にグローバルファンドがどう貢献していけるか、日本の官民の知恵を集めてアイディアを出し、日本のソフトパワーの一翼を担うことがSDGsの時代に求められるグローバルファンド日本委員会の使命であろうと思います。
今後も引き続き、皆さまのご支援をいただきますようお願い申し上げます。