エイズとの闘いを語る時に避けては通れないのが、コミュニティが果たした役割です。エイズ活動家として1980 年代からエイズとの闘いの最前線で活躍し、現在はUNAIDS(国連合同エイズ計画)の人権・ジェンダー・予防・コミュニティ担当上級顧問を務めるリチャード・ブルジンスキ氏にお話を伺いました。
─エイズ及びLGBTの活動家として走り続けて30 年が経ちました。活動を始められたきっかけは何だったのでしょうか。
始まりは、1985 年にモントリオールで開かれたカナダ初の国際エイズ会議でした。エイズに関する様々な報告が出始めた頃で、大学を卒業したばかりの私は、そのエイズ会議の運営を手伝いました。そこで私は、エイズの治療が受けられず、差別され孤立する人々を助けることが自分の使命だと感じるようになったのです。
エイズに関する活動に深く関わっていく中で私は、エイズという病気と闘うだけでなく、社会からの冷たい視線や差別にも懸命に立ち向かい、必死に生き延びようとする多くの素晴らしい人々に出会い、勇気付けられました。また、問題に直面する人々が支え合い、共に困難を乗り越えていくには「コミュニティ」(HI V陽性者、セックスワーカーや薬物使用者、男性同性愛者など高い感染リスクにさらされている人たち)の存在が欠かせないと痛感しました。1989 年には、カナダ・エイズ協会(CAS)の初代事務局長として、増えつつある国内のエイズ・コミュニティを支援し、政府への働きかけに奔走しました。
─それでも、エイズは世界中に広がり、問題は深刻さを増していきました。
そうですね。もはや地域レベルでは対応し切れず、世界中のコミュニティが一丸となって、グローバルにエイズ問題に取り組む必要がありました。私は世界中の仲間たちと共に国際エイズ・サービス組織評議会(ICASO)を立ち上げ、初代事務局長に就任しました。インターネットが普及し始めていた頃だったので、私たちはインターネットを駆使して情報を集め、世界に向けて積極的に発信していました。
気が付けば、私は世界的な一大エイズ・ムーブメントの真っ只中に身を置いていて、コミュニティの代表として国際エイズ会議の企画に何年間も携わっていました。その後、1994 年に横浜で開催された第10 回国際エイズ会議を始め、いくつかの国際会議でコミュニティ・NGOの調整役を務め、今日も活躍している素晴らしい日本人のエイズ活動家たちにも出会いました。
─その後、グローバルファンドの設立にも携わったとうかがっています。当時の様子を教えてください。
2000 年の九州・沖縄サミットで、議長国日本は感染症対策を主要課題として取り上げ、追加的な資金調達の必要性を提唱しました。その後、エイズ、結核、マラリア対策のための基金設立が合意され、出資国、途上国NGO、民間財団、国際機関などから構成されるワーキング・グループが立ち上げられ、設立の準備が進められました。
当初は、ワーキング・グループからICASOに対し、代表を一名派遣して欲しいと要請があり、同僚がブリュッセルの事務局に派遣されました。しかし数週間後、当事者とコミュニティが抱える課題や懸念にもこの基金が取り組んでいくためには、コミュニティ代表者をメンバーとして至急増やすべきだと彼女から連絡がありました。そこで私もLGBTコミュニティの代表としてワーキング・グループのメンバーに加わることになったのです。私は、会議で話し合われたことをまとめ、エイズ・コミュニティに広く共有しました。
しかし、ワーキング・グループの全てのメンバーがコミュニティ代表である私たちを歓迎してくれた訳ではありませんでした。議論の中で、新しい基金における市民社会の積極的な役割について難色を示す政府代表もいました。ある会議では、議長が政府代表ばかりに発言を求めたため、私は腹を立て、差別的な扱いに対する抗議をしました。議長は否を認めなかったものの、これを機に潮目が変わり、私たちにも意見が求められるようになりました。大変苦労の多いプロセスでしたが、当事者コミュニティや市民社会が議決権を持つ基金が誕生したことは、大きな成果と言えるでしょう。
─エイズ活動家として長年奮闘されてきましたが、2009 年に活躍の場を国連機関であるUNAIDS へと移されたのはなぜでしょうか。
リーダーシップの世代交代は重要だと考えています。25 年間、地域や国内のNGO、そして国際NGOの事務局長として最前線にいた私は、これからのグローバルな連帯に向けて新たな方法を模索する必要があると感じていました。ちょうどその頃、UNAIDS事務局長(当時)のピーター・ピオット氏と次期事務局長のミシェル・シディベ氏から、エイズ活動家としての経験を活かして、UNAIDSにコミュニティの風を吹き込んで欲しいと声がかかったのです。実際、UNAIDSで働き始めた時、シディベ氏から「君は、国際官僚になるのではない。エイズ対策で取り残された人々のニーズに国連が応えられるよう働きかけて欲しい」と念を押されたことを今でも覚えています。
─同性愛や薬物使用が犯罪とされ、社会的・宗教的に受け入れられていない国々があります。異なる価値観を持つ国ではどのようにエイズ対策を進めれば良いのでしょうか。
UNAIDSや多くのパートナーは、人権を尊重する「人」中心のアプローチが必要だと考えています。確かにそのような国や地域はありますが、人々の考え方や価値観は進化し続けます。宗教団体ですら見解は一律ではなく、薬物使用者や同性愛者を含むすべての人々がエイズ対策の対象となるよう働きかけている宗教団体もあります。かつては考え方の相違から実施できなかった事業が、今では、多くの国や地域で実施できるようにもなりました。
このような価値観の変化には、コミュニケーション技術の進化が大きく影響しています。インターネットやスマートフォンなどで世界中の人々がつながり、情報交換をしています。新しいデータや証拠となる情報が手に入り、伝統的な教えが社会の価値観を決める唯一の存在ではなくなりました。人々は宗教や伝統だけに頼らず、自分にとって大事なことを自分で決めています。宗教も社会から取り残されないよう、進化し、順応していかなければならないでしょう。
─ 2030 年までにエイズの流行を終わらせるためには何が必要だと思われますか。また、その中でコミュニティと市民社会が果たす役割についてはどのようにお考えですか。
エイズは私たちに平等や公正など、大切なことを教えてくれました。その中で今後の鍵となるのは、コミュニティの強靭性(resilience)、つまりエイズと生きる人々やエイズの影響を受ける人々のコミュニティが持つ、しなやかな強さではないかと思います。エイズが世界的に流行し始めた1980 年代初頭から今日まで、市民社会とコミュニティは常に先頭に立ってエイズと闘い、社会に変革をもたらしてきました。彼らは社会のあらゆる仲間たちと共に、HIV 陽性者のいのちはあまねく大切だと声を上げ続けました。
日本の安倍昭恵首相夫人もその仲間の一人です。昭恵夫人が東京のLGBTイベントに参加し、HIV 陽性者でエイズ・LGBT 活動家の長谷川博史さんと一緒にフロートに乗って約3000人の参加者たちと共に渋谷の繁華街をパレードした時には、誰もが目を疑いました。
このように、エイズを取り巻く環境は大きく変りました。グローバルファンド、米大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)などの新しいアクターが加わり、新たな技術の開発も進められています。まだまだ課題は山積ですが、それらに一つずつ取り組んでいくうちに、エイズの流行を終息させるために必要なことが見えてくるのだと思います。
リチャード・ブルジンスキ 国連合同エイズ計画(UNAIDS)人権・ジェンダー・予防・コミュニティ担当上級顧問 1985 年以降、エイズ活動家として活躍。89 年、国際エイズ・サービス組織評議会(ICASO)の設立に携わり、横浜市で開催された国際エイズ会議をはじめ、数多くのHIV/エイズ・LGBT 関連のイベントにおいて市民社会をまとめ、牽引した。99年には、グローバルファンド設立準備ワーキング・グループのメンバーとなり、その後グローバルファンドの理事会にて先進国NGO代表団の調整役を8 年間務めた。2009 年より国連合同エイズ計画(UNAIDS)に加わり、現在、人権・ジェンダー・予防・コミュニティ担当上級顧問を務める。
FGFJレポートNo.12(2017年4月)掲載